人にFOCUS(支部会員の紹介)

VOL6:昭和46年金属工学科卒業、同51年大学院工学研究科修士課程金属工学専攻修了 吉田 勉(ヨシダ ツトム)さん

 67歳で博士の学位を取得。定年を前にしたある日、社会人を対象にした博士課程が広島大学にあることを知り応募。そして見事合格して博士に。その取り組み姿勢に敬服した。60歳を越えて大学で勉強し、論文を書くなんて、凡人には骨の折れる世界だ。また、千葉工大卒業後は海上自衛官になり、5年後、母校の修士課程を修了。その後、自衛艦の建造や武器技術の開発などに携われた。そこは一般人にはあまりなじみのない世界。学位取得と合わせて興味津々な世界にフォーカスした。

---どうして千葉工業大学へ進学されたのですか?---

 京都市の北、紫野の米穀商の1人息子(姉と妹がいる)として生まれました。高校卒業後は家業をつぐように言われるだろうと思っていましたが、「おまえは好きな道を歩めばよい」という父の言葉にあまえ、大学進学を決めました。工学部に進学することには迷いはありませんでしたが、どの学科を選択 するか、考えました。そんな時、造船マンの叔父から、「機械をはじめ全ての製造物は金属材料が重要 な要素、それを勉強したら」という助言をうけたことと、一度は京都から離れて生活したいという想い もあり、千葉工業大学の金属工学科に進学しました。

---どんな大学生活でしたか?---


研究室にて

 4年間千種寮で暮らしました。寮での経験は、大学卒業後の人生に大きな糧となりました。私たちの頃の寮は3~4人部屋で、先輩と後輩が一緒に生活し、忍耐や節度、礼儀作法等いろいろ学びました。
 3年次の夏休みには、会社実習として三菱重工の高砂研究所に行きました。
人類初の月面着陸の中継を他大学の学生と研究所の寮で一緒に見たことを憶えています。
 卒論は峰岸研究室で「純アルミニュ-ム薄膜におけるホ-ル効果」について研究しました。卒論を纏めた4年次は、大学生活で唯一、遊ぶ暇もなく勉強した時間でした。今では考えられませんが、汚い白衣に雪駄といういで立ちで、大学の構内や津田沼の街を闊歩するという、バンカラが通用した愉快な4年間でした。

---卒業後、大学へ行かれたことはありますか?---

 大学祭(津田沼祭)の時に金属の同期生の集まりがあったり、同窓会の総会、最近では千種寮の50周年記念行事に出席しました。行くたびに、懐かしい校舎がなくなり、どんどんきれいな高層建築物が建ち、変貌の速さにびっくりします。変わらず残っているのは赤レンガの正門だけ。一抹の寂しさを感じます。また、学生のほとんどが近県出身者で占められ、私たちの頃のような地方出身者が少ないことも寂しいですね。

---卒業後はどんな仕事に就かれましたか?---


こんごうの進水式

 大学に残こることも考えていましたが、海上自衛隊技術幹部候補生として採用され、江田島で1年間、海上自衛隊幹部としての教育をうけました。なぜ、海上自衛隊に入ったのかとよく聞かれるのですが、祖父や叔父から旧海軍のことをよく聞かされていたことと、海軍の艦艇にあこがれていたからでしょうか。江田島の後は遠洋練習艦隊に配属され、南北アメリカを巡る遠洋航海を経験し、その後、砲熕武器の研究、開発、維持整備の技術幹部として歩み始め、艦載ミサイル、射撃指揮装置の開発と実用試験、艦艇装備武器の維持整備に携わりました。これらは電子技術の複合体で、私が大学で学んだ金属材料と異なるように思われがちですが、いろいろなトラブルの要因は材料に起因するものも多く、大学で学んだ知識と経験が大いに役立ちました。
 特に思い出に残っているのは、平成3年9月に進水した国内初のイ-ジス艦「こんごう」を建造するための予算要求、基本設計に携わり、三菱重工業長崎造船所での建造中も武器主任検査官として艤装に関わり、就役後も佐世保造修所の武器部長としてその維持整備に携われたことです。


米国留学した時の家族と大家さん

 また、武器技術習得のため、昭和54年から約1年、家族で米国に留学(米海軍の武器学校)したことも楽しい思い出です。
 56歳で海上自衛隊を退官し、その後は㈱日本製鋼所広島製作所特機技術部の担当部長として、艦艇装備の大砲やミサイル発射装置の開発、製造・維持整備等に関する助言者として関わり、64歳まで8年間勤めました。

---仕事をするうえでのモットーは?---

 何事にも「真摯な態度で取り組む」、そして「みんなが楽しんで仕事に取り組める環境を整備する」ということです。果たしてその通りできたのか、自信はありませんが、これまで1人のけが人も、途中退職した人を出さなかったのは自慢できるのではないかと思っています。

---学位取得のきっかけは?---

 海上自衛隊を退官する頃から、できたら大学でこれまでとは別なことを勉強したいという希望を持っていました。㈱日本製鋼所広島製作所特機技術部の非常勤顧問となり時間に余裕ができ、何か自分が生きた証を残したいという想いが強くありました。そんな折、広島大学の社会人学生募集要項をインタ-ネットで検索していたところ、総合科学研究科の教授に武器技術史を研究されている方がおられるのをみつけました。その教授にコンタクトをとり、私の希望を申し上げて、受け入れて下さることを確認した後、入学試験を受けて、平成22年度博士課程後期学生として入学しました。この点については、教授から既に修士課程を修了しているので博士課程後期に入学し、長期履修(3年間のところを4年間)すればよいという助言があったからです。
 論文のテーマは『19世紀「鉄と蒸気の時代」における帆船』になりました。これは、私が思いつきで言った「産業革命によって蒸気機関というものが発明され、進歩したにも拘らず、海上における物資の輸送は、なぜ蒸気船ではなく帆船によって行われていたのでしょうか」という言葉がきっかけでした。先行研究は舶用蒸気機関そのものの進歩の遅れについて論じられたものが多く、帆船に即した論文や、社会環境や経済状況、製造業および製造技術の進歩等とリンクさせた論文は少ないことが分かり、その点を含めた論文として纏めることにしました。文献の精査と読解に非常に苦労しましたが、指導教授や学会の方々の助言を得て、3年間かけてなんとか纏め上げることができました。論文審査や公聴会というハ-ドルもなんとか突破し、平成26年3月に広島大学から学位を授与されました。この歳になっても、頑張れば何とかなるものだと実感しました。

---学位を取得して思うことは?---

 この4年間の学生生活を振り返って思うことは、若い頃の4年間に比べ何と短く 感じられたことか。歳をとれば1日が長く1年が短く感じると言われますが、まさにその通りでした。
 取得した学位は博士(学術)。英語では「Doctor of Philosophy」で『原義で知の追求』ということだそうです。論文を纏める中で19世紀に書かれた文献や、同じような研究論文を読み、いかにして自分の意見に合う過去の文献を見つけ出すかという、理系とは違った学習方法を学びました。また、歴史がいかに現代に生かされているかを探る方法と、歴史を勉強することの重要性を再認識させられました。

---後輩に贈る言葉をお願いします---

 大学卒業後、海上自衛隊に勤務した32年間、民間の会社に勤務した8年間を通じて思うことは、どんな時でも物事に「真摯な態度」で臨み、「簡単にあきらめない」ということです。真摯に一所懸命努力すればおのずと道は開けますし、手を差し伸べてくれる人が必ず現れます。
 簡単なことではありませんが、常に前を向いて、笑顔で前進してください。笑顔は、周りを幸せにし、自分に勇気を与えてくれます。

編集後記

 学生時代の服がまだ着れますよ。当時と体形が変わっていないそうだ。変わらないのは体形だけではない、物事に取り組まれる姿勢もだろう。研究活動に熱中した学生時代のココロを今も持ち続けておられるようだ。趣味のウォーキングや読書も、じっくり腰を据えて取り組まれている。今なお、青春時代を謳歌されているようだ。

リポーター:篠原高英(工化49年卒)